ともびより(知日和)

ともBのつぶやき

社会で生きると言うのはボロボロになることだ

続き

 

その為の癒やしの場としての家庭があるべきだと私の中の人は言っている

 

社会は厳しい

でもそこに身を置かなければならない

疲れたら休む場所としての家庭がある

確かに家庭が全く癒やしの場にならない人は外がその場合もある

だからキャバクラにしろ飲み屋にしても癒やしの場として意味がある

つまりは社会で働くというのが身を削るというのが今の構造の現状なのだろう

 

今の社会は昔に比べたら随分良くなった

平和なのは間違いない、以前に比べて貧富の差は激しくなったかもしれないが、恵まれているのは間違いない

でも、今のシステムが全然ベストではない

システムはよりよくなるためには、今のシステムのボロがたくさん出て、変革を起こそうという流れができないと絶対変わらない

 

社会で揉まれる事は必要だ

折籠の鳥では成長は見込めない

そもそもなんで理不尽で大変な世の中なのだろうか?

ある事を思い出した

ある人の過去生

 

平和過ぎて幸せ過ぎてつまらない

 

ってそんな世界から抜け出してこっちに来た人がいた

僕も同類だと感じた

苦しみの中でしか僕たちは成長できないのをよく知っているからだ

それでも苦しいものは苦しい

でもそこにしか答えがないことを知ってるので、そこに果敢に飛び込む

 

身体の事をやっていて本当によく思うことがあって

それは適応力がこの世で生きやすさがあるか?ないか?って大きく左右していると・・・・

 

適応力っていっても

結局は、どんな状況になってもそれなりに対処できる力の事ね

これがあると、失敗が怖くないので、結構楽に生きれる

失敗して、

あーこういう状況ではこうすればいいんだ

ってのを気づいたら

 

次に同じ状況になっても全く怖くないってこと

 

つまり社会でボロボロになっても同じ失敗を繰り返してたら意味ないのだが、

ボロボロになっても失敗から適応力をつけていけば

凄く意味があることだ

 

つまりは成功しようなんて思わなくても良いのかもしれない

どんな状況にでも適応する力をつけて、やりたい事をやるってのが一つの道であるような気もするのだ